アメリカの帝国主義化を考える

 

『図書新聞』2001.12.11.所収

橋本努(北海道大学大学院助教授/ニューヨーク大学客員研究員)

 

 タリバン軍に対する米英および北部同盟軍の攻撃は、開始以来約二ヵ月後にはアフガニスタンの主要な都市を攻略し、タリバン政権を事実上の崩壊に追い込むことに成功した。当初の予測からすればこれは、目覚しい成果であるといえよう。無論その背後では、多くのアフガン市民が空爆の犠牲になったにちがいない。今後事実が明らかになるならば、とりわけアメリカの空爆がアフガン市民に与えた功罪が問われなければならない。はたして911日の同時多発テロ事件に対するアメリカの反撃は正当なものであったのかどうか。これは時間と労力を要する重要検討事項である。

しかし他方では別の規範的問題、すなわち、今後のアフガニスタン統治をめぐって、アメリカはどこまで介入をすべきかという問題が浮上している。アメリカが積極的な介入を引き受けるならば、それはやがて、中東諸国に対するアメリカの帝国主義的支配をもたらすことになるかもしれない。すなわち、中東諸国における自由民主化、近代化および平和維持という社会秩序上の改革を、アメリカ主導で行うことになるかもしれない。この問題をめぐってアメリカでは、賛否両論がある。一方では積極的な帝国主義的介入を推進するタカ派の意見があり、他方では介入を極力抑えるべきだとする穏当な意見がある。後者はとりわけ非西洋の諸文化を代弁する知識人たち(文化人類学者など)によって代表されよう。これら二つの立場に対して、市民社会論と批判理論に基盤をおくアメリカの左翼知識人は、主として国内における監視強化の問題、および、軍事裁判を認めるアッシュクラフト法案に対する批判を展開しており、「監視からの自由」と「手続きとしての正義」という理念を主張するものの、アフガニスタンにおける近代化の推進を阻止する理念を持ち合わせてはいない。

そこでここでは、アメリカによる中東諸国への積極的介入という問題について考えてみたい。バーナード・ルイス(National Review Dec.17,2001)、および、エリオット・コーエン(The National Interest No.65-S.2001.)は、帝国主義化を推進する立場からおよそ次のように論じている。歴史的に言えば、フランスやイギリスなどの過去の帝国はすべて周辺地域に対する帝国的支配を追求してきたが、アメリカは自由と基本的人権の理念を掲げ、他国の領土に対するハードな支配を極力避けてきた。例えば一九九一年、湾岸戦争にアメリカが勝利したとき、アメリカはイラクの首都バグダッドに進攻し、サダム・フセイン政権を崩壊させることもできたであろう。そしてイラクに親米政権を樹立することもできたであろう。また一九九四年に少数民族のクルド族がサダム・フセインによって虐げられたとき、アメリカはクルド族のための「安全地帯」を設けることには協力したが、その地帯においてイラクの反体制派とクルド族が民主主義の政体を作るという計画には協力しなかった。アメリカはこのように、積極な介入を避け、ただその圧倒的なパワーを見せつけることに終始してきた。しかしこうした控えめの態度が今回のテロ事件の原因となったのであり、アメリカの非介入政策それ自体が、中東におけるテロリストと独裁者の両方をのさばらせている。それゆえアメリカは今後、帝国としての自覚と責任をもち、「西洋中心主義」と呼ばれることを恐れず、中東諸国の自由民主化と近代化を援助しなければならないという。

これに対してジョン・ロイドが寄せたフィナンシャル・タイムズの週末論評(12/8)は、正反対の立場を代表している。この論評によれば、テロ事件以降、途上国の多くの人々はアメリカをダース・ベーダーに見立てているという。すなわち、顔のみえない巨大な父性権力、信条に満ちた若者たちが対抗すべき悪の代表格としてのアメリカである。なるほど途上国の人々は、多かれ少なかれ近代的な生活への憧れを抱いている。しかし近代化に成功した諸国とりわけアメリカが、アフガニスタンに対して「よりよい暮らし」というものを独裁的な仕方で提供するならば、人々はやがてその統治のあり方に反逆しはじめるであろう。西洋社会にとって、近代化とはなによりも市民権と民主主義、そして女性の解放を意味するが、しかしテロ事件以降、西洋社会を「悪の帝国」であるとみなすようになった諸社会においては、近代化の過程において、たとえ不完全ではあっても、西洋の合理主義や自由主義とは別の何かが、社会秩序の基盤に設立されなければならない。なぜなら、社会理念において何もオルターナティヴがないという閉塞状況は、さらなるテロリズムを生み出す温床となるからである。ロイドによれば、今後イスラム社会と西洋社会の友好関係が可能であるとすれば、西洋社会は、イスラム諸国が西洋とは別の社会であることを容認し、それと共存する道を探る必要がある。たとえそれが自由社会のいかなる形態とも異なるものであるとしても、また「善き生」に対する西洋的な理解とはかけ離れたものであるとしてもである。

このように、アフガニスタンおよび中東諸国に対する介入をめぐって、アメリカでは賛否両論がある。一方には、国益のために積極的な介入外交を推進する声があり、他方には、共存のためにソフトな文化理解と寛容を求める声がある。前者は集団的利己主義であるのに対して、後者は集団的利他主義である。しかしどうであろうか。アメリカの帝国主義的介入は、アメリカの国益になるというよりも、最終的にはそのコストが高くつくことになるかもしれない。私にはむしろ、ソフトな文化理解を主張するたちの方が、産油国との利害関係を直接代弁しているようにも見える。外交政策の理念と国益の関係はパラドキシカルである。帝国主義的介入という理念は、おそらくアメリカの国益にとって自爆的であろう。問題はむしろ、中東(さしあたってアフガニスタン)の近代化という理念を、帝国の理念とは切り離して正当に議論しうるかどうか、という点にあるだろう。はたしてアメリカ主導ではない多元的・複生的な近代化の種をまくことは可能だろうか。目下問われるべきはこの問題である。